<コース>
京阪淀屋橋 → (京阪電鉄) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 一乗寺 → 徒歩8分 → 詩仙堂

六六山 詩仙堂 丈山寺 凹凸窠(曹洞宗)
この日は夕方、京都市内で会合があるので、
少し早めに出て叡山電鉄一乗寺駅で下車して北白川付近を散策。
古くは宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場所、最近はラーメン街道で知られますが、
この付近は寺社が多い事でも有名です。
詩仙堂は江戸初期の文人・石川丈山の山荘跡。
文人らしい家屋と庭園が有名な観光名所ですが、
正式には永平寺の末寺の曹洞宗の寺院です。
詩仙堂と書かれた石標の後ろにある竹の小さな門を潜り、
樹木に囲まれた石畳を進むと小さな茅葺の門の向こうに
楼を持った三階建ての家屋が出迎えます。

京福電鉄一乗寺駅の改札を出ると直ぐにこの石標が

途中にある「一乗寺下り松」の跡

詩仙堂入口へ到着

小有洞の門
入口に建つ竹で出来た門。「文人は竹を友とす」に拠るのか?

参道から小有洞を見返る

この石段を上ると山荘に

参道を上り詰めた場所に建つ「老梅関の門」

玄関前の庭

玄関から見上げた嘯月楼
詩仙堂は正式名・六六山詩仙堂丈山寺凹凸窠(ろくろくざんしせんどうじょうざんじおうとつか)、由緒に拠ると
『石川丈山は父祖代々徳川譜代の家臣で、松平正綱、本田忠勝は親族に当たる。
自身も十六歳で家康に仕えた。三十三歳の時、
大坂夏の陣で先登の功名を立てたが、それを家康に叱責されたため出奔。
京都にて藤原惺窩に朱子学を学び、広島の浅野家に十数年出仕。
五十四歳の時に母が亡くなったのを機に京都に戻り、
寛永18年(1641年)五十四歳の時に詩仙堂を造営し、
九十歳で没するまでの三十余年、文人として隠棲生活を送った。
近世における隷書、漢詩の大家として知られ、煎茶道の開祖でもある。
邸内には「嘯月楼」という家屋があり、そこの一室に中国の詩人三十六人の
肖像を狩野探幽が描き、漢詩を丈山自身が書き四方の壁に掲げた。
これが詩仙堂の名の由来であり、建屋や庭園が山の斜面の
凸凹した場所に建てられたため凹凸窠と呼ばれた。』とあります。

嘯月楼の1階から見た庭園(右側)

嘯月楼の1階から見た庭園(左側)

詩仙の間の前庭

読書室であった「至楽巣(猟芸巣)」と前庭

庭園から山荘を見る

庭への降り口にある杉苔と紅葉

左から嘯月楼、詩仙の間、至楽巣

堂上の楼の近影

紅葉の向こうに見える山荘屋根

嘯月楼の前庭

前庭から下の庭に向かう
徳川譜代の臣が一度叱責された位で武士を捨てて隠棲するとは
信じがたい気もしますが、本人は【じょうだん】ではなかったのでしょう。
「先駆けをするような猛者は平時の能吏には向かない。」
大坂の陣で戦国の世の終焉を見届けた丈山は
己の役目は終わったと【脳裏】に悟ったのかもしれません。
大名屋敷には及びませんが、隠棲するには贅沢な環境。
波乱万丈の凸凹人生を送り死線を潜り抜けた武将の
終焉の地が【詩仙】堂というのも因縁を感じます。

石垣に繁茂する羊歯類

下の庭に百花を配したという「百花塢(ひゃっかのう)」

百花塢の前の池と残月軒

残月軒近影
茶室の扱いか?

残月軒横の藤棚と紅葉


更に下って坐禅堂へ

途中は苔の絨毯

坐禅堂である「十方明峰閣」

庭の最も奥まった場所から

山茶花

洗蒙瀑
庭に下り蒙昧を洗い去る滝の意味。

一般には鹿威しと呼ばれる添水・僧都(そうづ)
山荘内の静寂の中で唯一大きく響く音で、丈山も好んだと言われる。

至楽巣の脇の井戸「膏肓(こうこう)泉」
丈山自身が「病膏肓に入る」からか?

詩仙堂説明書

詩仙堂御朱印

京都一乗寺郵便局 ; 詩仙堂嘯月楼、決闘の地・一乗寺下り松の碑 (2003年以前)
京都一乗寺郵便局 ; 詩仙堂、宮本武蔵と吉岡一門決闘の地・一乗寺下り松、宮本武蔵像
[参考書]
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