<コース>
京阪淀屋橋 → (京阪電鉄) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 一乗寺 → 徒歩8分 → 詩仙堂 → 徒歩5分 → 北山別院 → 徒歩5分 → 金福寺 → 徒歩20分 → 真如堂 → 徒歩3分 → 金戒光明寺

紫雲山 金戒光明寺(浄土宗)
真如堂の山門を出て左に進むとすぐに金戒光明寺の境内に。
学生時代の下宿から一番近い有名寺院だったので、
訪れたり通り過ぎたことは間々ありましたが、
【今回、紅葉時】は初めて。お蔭でじっくり拝観できました。

高麗門
真如堂からだと北門から入山するが通常は西にあるここが正門。

高麗門脇の石標
幕末に京都守護職会津藩の本陣となった。

参道から見上げた山門

万延元年(1860年)再建の山門
初めの門は先の戦(応仁の乱)で焼失した。この日は特別拝観なので楼上に上る人が多かった。

山門にある後小松天皇宸筆の「浄土真宗最初門」の勅額
「浄土の真なる宗」の意味で親鸞の浄土真宗とは関係ない。

山門下から境内を望む
良く時代劇のロケに使われる。

境内から見た山門

境内へと続く石段
紫雲山金戒光明寺(しうんざんこんかいこうみょうじ)は、
『法然上人43歳の承安5年(1175年)、比叡山の修行を終えてこの地で念仏をされた時に、
紫雲全山にたなびき、光明が辺りを照らした事から最初の念仏道場を開いた場所。
当初は法然の縁起によって紫雲山光明寺と呼ばれたが、
後に後光厳天皇に戒を授けた事から金戒の二字を賜り金戒光明寺となった。』 とあります。
山号寺号は説明できますが、黒谷とは何か?法然が比叡山を出たのが黒谷の地で、
庵を結んだこの場所も黒谷の所領だった事がその由来だそうです。
谷という名前ですが寺院の建つ場所は小高い丘。江戸時代には城郭構造を取っていたようで、
現代でも山門から御影堂へ至る間は時代劇ロケに使用されています。
幕末京都守護職となった会津藩が本陣を置いたのもそのような地形が好まれたのでしょう。
いまも境内に会津藩士の墓があります。

昭和19年再建の御影堂(大殿)
内陣正面には開祖法然上人の75歳の御影(坐像)を安置している。

御影堂
浄土宗では本堂よりも御影堂の方が大きい事が多いとか。

昭和19年再建の大方丈
通常はこのように外部のみだが、この日は内部まで拝観できた。

本堂脇の熊谷直実鎧掛けの松
これは2014年に植えられた三代目。

大方丈の前庭

大方丈廊下より開かずの門を見る
紅葉で有名な寺院ですが真如堂と同様に境内の紅葉は拝観無料。
唯、山門への登楼と本堂、方丈、方丈庭園のみが特別拝観。
¥800で本堂以下を拝観しましたが、圧巻は方丈庭園。
開祖法然上人の生涯を枯山水で表現した紫雲の庭と呼ばれますが、
幼少時代・修業時代・浄土宗興隆時代の三つに分けて構成されていました。
一見したところ普通の庭園と見てしまいますが、そこが【こうみょう】たる所以でしょうか?
拝観内容が馬の耳に念仏となったかどうかは定かではありませんが…。

大方丈の東に広がる「紫雲の庭」
法然上人の生涯と浄土宗の広がりを枯山水で表現したもの。

紫雲の庭の右側
法然上人の美作での幼年時代を表現。

紫雲の庭の左側
比叡山延暦寺の修業時代(左の石組)と金戒光明寺での浄土開宗(右の石組)を表現。

方丈北園の池と紅葉

池の北側から大方丈を望む

北庭にある竹林

庭園を巡りを終え大方丈へ

拝観出口にある清和殿と新清和殿
御朱印と土産は右の新清和殿にて。

阿弥陀堂
慶長10年(1605年)豊臣秀頼に拠り再建された山内で最も古い建造物。

阿弥陀堂の後ろを通り墓所へ向かう

蓮池に架かる極楽橋から山門を見る

重文・三重塔
徳川秀忠公の菩提を弔うために寛永10年(1633年)に建立。近年まで文殊菩薩を安置していたので文殊塔とも呼ばれる。

金戒光明寺説明書

金戒光明寺御朱印 その1
本尊阿弥陀如来

金戒光明寺御朱印 その2
浄土真宗最初門
[参考書]
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