<コース>
【往路】新大阪(6:06) → (ひかり501号) → JR新山口(8:38→9:13) → JR湯田温泉(9:31) → 徒歩5分 → 井上公園 → JR湯田温泉(9:58) → JR山口(10:02)
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瑞雲山 龍福寺(曹洞宗)
八坂神社参拝後、その南にあった大内氏居館跡へ向かうと敷地には大きな寺院が建っています。
大殿大路から続く山門前の参道は両側から紅葉が覆っており、開放的な空間の瑠璃光寺とは対照的に
閉鎖的ですが宛ら紅葉のトンネル。瑠璃光寺程ではないですが観光客もチラホラと。
当初は旧居館を見るだけの予定でしたが、寺院の雰囲気から急遽巡礼。

竪小路に面して寺標が建つ

大殿大路から山門に至る参道
瑞雲山龍福寺(ずいうんさんりゅうふくじ)は、
『建永元年(1206年)、大内氏18代満盛が創建した宝珠山瑞雲寺が嚆矢。創建当時は今の場所から西方の
鴻の峰の麓にあった。その後、享徳3年(1454年)、28代教弘が雪心和尚を迎えて中興開山とし、
宗派を臨済宗に、寺号も瑞雲山龍福寺と改めた。
弘治3年(1557年)4月、32代大内義長が滅び、その跡を継いだ毛利隆元は31代義隆の七回忌に
後奈良天皇から再建の綸旨を賜り、大内氏館跡に当寺を建立し、大内義隆の菩提寺とした。

山門近影

山門から大殿大路方面を見る
弘治3年建立の本堂は明治14年の火災で焼失。同16年の再建には、大内氏の氏寺であった
興隆寺釈迦堂を移築したのが今の本堂である。
その正確な建築年代は不詳であるが、建築様式からは室町後期の作とされる。
その本堂は平成17~23年にかけ保存修理が行われ、屋根も浅瓦葺から檜皮葺に生まれ変わった。
周辺には広大な池泉庭園、西門や枯山水庭園が復元整備され、大内氏の居館であった当時を
偲ぶ事ができる。』 とあります。

山門に掲げられた「瑞雲山」の扁額と垂幕
垂幕の紋は大内氏遺跡シンボルマークで、凌雲寺から出土した軒瓦の文様に由来する。

由緒記
かつて大内氏が創建したお寺を、毛利氏が大内氏の菩提寺として再興したもの。
大内氏の事実上の最後の当主義隆は重臣の陶晴賢の謀反で滅亡。毛利元就はその陶晴賢を厳島の戦いで破り
中国地方の覇者になります。晴賢を討ったことで義隆の仇を討った訳ですから、元就としても
義隆を蔑ろにはできなかったと言えるでしょうか。実直な元就の性格が出ています。
大内義隆については、中国・九州地方の七ヵ国の守護となり、位も従二位に進み、富と権力は
天下に並ぶものがないと言われました。唯、尼子氏との戦いで後継者を失ってからは政治的に無気力になり、
文化に浸ったために家臣に裏切られた軟弱な当主というのが一般的な解釈です。

山門から本堂へ続く参道

本堂から見た本堂
明治16年の再建に当り、大内氏の氏寺興隆寺釈迦堂を移築したもの。
しかし軟弱な当主に七ヵ国も治められる筈もなく、当主に権力を集中させようとした義隆に
危機感を抱いた晴賢が先手を打ったという説もあります。
大内義隆や今川義元など敗死した武将に対する後世の評価は非常に低いですが、織田信長もそのパターン。
しかし信長を低く評価することは稀。人物評ももう少し客観的に考え直す時期に来ている気がします。

境内に建つ「大内義興公馬上展望像」
義隆の父で30代当主、足利義稙を奉じて上洛、11年間に亘り幕政を左右した実力者であった。

大内義隆卿主従供養塔
という訳で予定外の参拝でしたが市内観光の最後を飾るに相応しい名刹。
これは運が良かったと思っていましたが、帰宅して以前の御朱印帳を見ると、
何と平成11年のお盆に訪問済。これだけの寺院を覚えていないとは、【瑞雲】焼きが回ったものです。

龍福寺御朱印
(左) 今回、令和2年拝受 (右) 平成11年8月14日 拝受
[参考書]
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