<コース>
【往路】新大阪(6:06) → (ひかり501号) → JR新山口(8:38→9:13) → JR湯田温泉(9:31) → 徒歩5分 → 井上公園 → JR湯田温泉(9:58) → JR山口(10:02)
山口駅前レンタサイクル → 市内観光 → 山口駅(13:33) →JRバス → 萩・明倫センター(14:5) → 明倫館 → 徒歩5分 → 長寿寺・海潮寺 → 徒歩5分 → 野山獄跡

両側に寺が並ぶ
萩城址からJR東萩駅まで続く通り。
寺院の密集する地区から東へ向かうと道を挟んで両側に石碑が建った場所があります。
そこが史跡野山獄・岩倉獄跡で、
『正保2年(1645年)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組・禄高200石)は酒に酔って、
道を隔てた西隣の藩士・野山六右衛門(大組・禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。
この事件の後、両家は取り潰され屋敷は藩の獄となった。野山獄は上牢として士分の者を、
岩倉獄は下牢として庶民を収容した。尚、現在の指定地は獄の一部である。

道の西側にある野山獄跡

野山獄・岩倉獄略図
幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられた。
金子は牢死し、岩倉獄跡にはその死を悲しんで松陰が詠じた詩碑及び
萩出身の首相田中義一の手になる牢死の場所を示す石碑が建つ。
一方、野山獄には11烈士碑やその絶命の場所を示す石柱が建てられており、
11月の第一日曜には町内会に拠って両獄所縁の人々の慰霊祭が行われている。』 とあります。

こちらは東側の岩倉獄跡

岩倉獄跡説明碑
喧嘩両成敗が武士の常とはいえ、切り込んだ岩倉家は兎も角、被害者の野山家も取り潰しとは、酷な話。
説明では分かりませんが、一体どんな経緯があったのでしょうか?
悲惨な成り立ちの両獄ですが、幕末に活躍した人には結構縁があります。既述の吉田松陰の他、
高杉晋作は脱藩の罪で、明治政府の参議となる広沢真臣は反対派の弾圧で入牢しています。
入牢した事が己に箔を付けた訳ではありませんが、
それくらいの気概がなければ維新の大役にはなれなかった証でもあります。
今は石碑が建つだけですが、これを監獄ロックと呼ぶかどうかは定かではありませんが。

吉田松陰が詠じた詩碑(左)と田中義一首相の手になる石碑
[参考書]
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